〔鐘楼堂と梵鐘〕
鐘楼堂は、寛政三年(1791年)建立。鐘は戦時中に供出されたままでした。昭和三十年(1955年)住職・中井龍瑞は平和と鎮魂の祈りを込めて鐘を作ろうと親しい書家松坂帰庵の紹介で、歌人であり能書家として名高い會津八一(早稲田大学名誉教授)に鐘の揮毫を依頼しました。
會津八一は衰弱していたにもかかわらず、寺からの写真や文献などの資料と周辺の様子、海の近さなどを聞き作歌しました。美辞麗句を避け、誰にでも読めるようにと平仮名交じりの銘文と平仮名の歌を作りました。それを、松坂帰庵が刻字しました。會津八一は一度も八栗寺へ来訪できませんでした。
會津八一の死後の翌年昭和三十二年(1957年)完成したこの鐘を初めて突いた時、雨が降り地面が少し揺れたことから、「天雨地動の霊鐘」と呼ばれています。
鐘に刻まれている會津八一遺作の歌
わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひひけこのかね のりのみために
(意味 海の底深く泳いでいる魚のひれにまで響けこの鐘よ 仏法のために)
鐘には、竹内清画伯(二科会会員)により五剣山と正倉院御物の鏡にある波紋・雲紋模様が刻まれており「美術梵鐘」としても有名です。
八栗寺では、毎朝六時四国の寺と新潟県の歌人の縁を結んだこの鐘を突いています。
また、参拝者も鐘を突くことができ、大晦日には108人によって除夜の鐘が突き鳴らされています。
會津八一(あいづやいち)は、雅号を秋艸道人(しゅうそうどうじん)といい、明治から昭和にかけて活躍した歌人・書家・美術史家です。全てにおいて独学者で、八栗参道沿いに記念館のある柴野栗山(寛政の三博士)は敬愛した一人でした。歌碑は故郷の新潟をはじめ、奈良の東大寺・唐招提寺・薬師寺、東京の早稲田大学、大阪の四天王寺などにありますが、梵鐘は八栗寺のみです。鐘に刻まれた歌は遺作となりました。現在新潟市には「會津八一記念館」、早稲田大学には「會津八一記念博物館」があります。